SSブログ

岸和田フォーラム「だんじりから紐解く『大坂之陣』」 [趣味]

岸和田散策、岸和田城見学の後、
産経ウェーヴ主催の岸和田フォーラム「だんじりから紐解く『大坂之陣』」に参加しました。
P5180032.JPG

場所は岸和田城の隣にあるだんじり会館です。

P5180019.JPG

P5180024.JPG

満員御礼の大盛況でした。やっぱり大坂冬の陣から400年来年は夏の陣から400年、大阪の
歴史好きの人にはたまらん年です。
P5180025.JPG

まずは大阪城天守閣館長・北川央氏による「総論・大坂之陣」のシンポジウムでした。このお話は
大変興味深く聴かせていただきました。天下分け目の関が原とよく言われますが、実際は天下が
分かれたのは大坂之陣だと言う事です。1598年豊臣秀吉は死去しました。その後の事は息子
秀頼に継がせ天下泰平の世を作るよう、家臣徳川家康、前田利家らに遺言を残しました。しかし
1599年、秀吉の両腕と言われた家康、利家の内利家が死亡すると、家康の裏切りが始まる。
いろいろな家康の暴挙に対して、石田三成他豊臣家臣は徳川の暴挙を止めにかかるが、家康は
すでにいろいろな策略で大名を取り込んでいった。そして1600年関が原の戦いが始まる。しかし
これはあくまで豊臣家家臣の内乱に過ぎない。徳川方勝利の後1603年家康が征夷大将軍に任命
されたが、この時点ではまだ江戸幕府は開かれたものの朝廷での位は右大臣で天皇、摂政、関白
の3位に次ぐ武士最上位の地位にしか過ぎない。しかし豊臣秀頼は関白秀吉の子として、朝廷は
まだ当時11才だったため次期関白の位を約束されていた。教科書では関が原の戦いで破れ、
摂津、河内、和泉の65万石の一大名になったと習ったと思いますが、それではなぜ大坂之陣が
起こったのでしょう?実際には豊臣家はまだ朝廷に大きな影響力を持ち、江戸幕府後も朝廷から
大坂城へ挨拶に出向いたり、各大名からの付け届けなどがあったという書状などが残っている。
また秀頼は戦で失われた神社仏閣の補修にも力を入れより朝廷からの信頼も厚くなっていった。
それを良く思わないのが徳川家。すでに1605年二代将軍秀忠になってからも家康の力衰えず、
1614年方広寺大仏殿の鐘銘にいちゃもんをつけ先手を打ち諸大名を味方につけた家康は
豊臣征伐を掲げ10月1日大坂冬之陣に突入する事となる。しかし大坂城の強い守りと大名の力
が拮抗していたために12月19日和平交渉妥結、22日和睦が成立した。しかしこれはあくまで
家康の策略で和平の条件として大坂城の堀の壊す事を条件とした。この条件を受けたのが
豊臣側のボンクラ家臣大野治長。これによって大坂城は丸裸の防備となる。この工事が完了した
ことにより1615年4月5日家康は秀頼に対し、大坂城を明け渡し国替えを命じた。これを拒否した
ため大坂夏之陣へと突入した。この時すでに諸大名の多くは家康の手回しで徳川家側に寝返って
いた。そして大坂城が無防備となった豊臣側は野戦を強いられ窮地に追い込まれる。
慶長20年(1615)5月7日天王寺口で最後の決戦、そして大坂城は落城した。翌8日秀頼、淀殿
自刃により豊臣家は滅亡した。秀頼わずか23才での事だった。これにより朝廷での位が大納言
右大臣ながら徳川家は最高位となり、江戸時代に突入した。という話でした。
天下を分けたのは関が原ではなく大坂之陣だったと言う事がお解りいただけましたでしょうか。
もし前田利家の寿命がもう少し長かったら、もし秀頼が65万石の一大名に下っていたなら、もし
大野治長のようなボンクラ家臣がいなければ。もし、たら、ればをいろいろ考えると歴史はいろいろ
変わって見えて面白いですね。

続いて旭堂南陵師匠の講談「難波戦記より槍摺之鎧」の一節。真田幸村が徳川家康を追い詰め
家康は家臣大久保彦左衛門とともに逃げ回る。しかしすでに年老いた家康は逃げることも出来なく
なり、ため池に入り葦の茂みに隠れた。幸村は葦の動くところに槍を突き立てるが、彦左衛門の
鎧をかすっただけで家康は命からがら逃げ延びたというお話でした。

続いては篠笛奏者森田玲氏による岸和田だんじり祭の概要のお話でした。森田氏は神祭に精通
されている方で、岸和田の祭がどう変化してきたかの概論を説明いただきました。
前ブログに書いたように岸和田の祭は岸城神社(岸和田神社)の神事として1745年に始まりました。
そして当初は神賑行事として太鼓台、獅子舞、にわかなどの行事だったそうです。大きなだんじり祭
となったのは江戸後期以降だそうです。中秋の放生会として八幡様をお祀りするお祭で旧暦の8月
13日、明治以降は新暦の9月15日に行われています。今現在は神事は変らず9月15日に行われ
ていますが、神賑行事としてのだんじり祭は15日に近い土日に行われています。

ここまでは大坂之陣の話と岸和田の祭の単体での話ばかりですが、では岸和田のだんじりは
大坂之陣とどういう関係があるのでしょうか?
それはこのフォーラムのメインイベント。前出の北川先生と南陵師匠に加え、神祭に詳しい篠笛
奏者森田玲氏、だんじり彫刻師の河合申仁氏による四者対談という形で始まりました。
岸和田の街並みを猛スピードで駆け抜け、カーブでは見事なやりまわしなど派手な部分ばかり
に目が行きがちですが、だんじり15基(20町内で現在は15の町にあります)には様々な彫刻
が施されています。実際祭りで走っているときは保護のため金網が張られ見えにくいのですが、
前後左右に勇ましい武者の彫刻が様々な話により彫られています。
P5180026.JPG

古くは日本武尊の蝦夷征伐野火の難などの日本神話から、三国志、源平物、曾我物、太平記物、
戦国物、忠臣蔵などの様々な名場面が彫られています。その中に大坂冬之陣、夏之陣物があります。
しかしその場面は北川先生の史実にはないものが殆どだそうです。実際の史実によって作られるので
あれば、大物武将同士の戦いなど実際にはないわけで迫力に欠けます。ではどこからこの場面が
設定されているかと言うと講談の場面による事が殆どだそうです。大坂之陣で言えば、先ほどの南陵
師匠の槍摺之鎧の場面や、後藤又兵衛、薄田隼人の活躍場面などの講談の世界が広がっていて、
だんじりと大坂之陣のつながりは講談だということです。しかし講談が全部作り話かというとそうでは
ありません。史実は文書が残っていないと証明できません。しかし講談の世界は実際の言い伝えや
物証があり、その上で話が作られます。講談の世界では徳川家康は後藤又兵衛の槍によって討ち取
られます。そんなアホなと思われるかも知れませんが、実際に堺の南宗寺という所に家康の墓があり
日光東照宮に後藤又兵衛に刺された駕籠が残っています。その後の家康は東大阪の吉田村に居た
やそ兵衛という人物が家康に似ていたため江戸まで連れ帰り影武者にしたという言い伝えも東大阪
に残っています。史実を語る北川先生、講談の世界を語る南陵師匠、お二人の南北戦争は産経ウェ
ーヴの名物になっています。
P5180027.JPG

P5180028.JPG

3時間に及ぶフォーラムも非常に興味深く面白く楽しい時間を過ごせました。
その後、だんじり会館内を見学。実際の彫刻現場の見学もありました。
P5180029.JPG

だんじりの花形、屋根の上で方向を操る大工方の経験もできます。
P5180030.JPG

参加料2500円といつもより少し高かかったのですが、お土産に「岸和田だんじり祭地車名所独案内」
(森田玲氏構成)の冊子とだんじり法被ストラップをいただきました。
P5200033.JPG

P5200034.JPG

十分納得です。有意義な時間を過ごせた日曜日。長々とした報告失礼しました。
これにて御免[exclamation][ダッシュ(走り出すさま)]


P.S.  前ブログにおきまして大阪では大阪城しか知らなかったとのご意見をいただきました。
    大阪には天守として残っているお城は大阪城、岸和田城、池田城の3城が残っています。
    また城跡にいたっては確認されているだけでも110もの城跡がありました。また各所に
    砦や陣屋が残っており、いかに戦国の世に重要な拠点だったかを示しています。



nice!(32)  コメント(8) 
共通テーマ:日記・雑感

大阪漫遊記(岸和田城)編 [徒然]

岸和田フォーラムに参加する前に岸和田城に寄りました。岸和田にはだんじりを見に行ったり
何度も訪れていますが、実は岸和田城を訪れたのは初めてです。岸和田市役所すぐ横にお堀
があります。
P5180003.JPG

P5180004.JPG

P5180005.JPG

日曜日でしたが大阪城ほどの賑わいもなく人もまばらでゆっくり見学する事ができました。
さて入城しましょう。
P5180006.JPG

門を入ってすぐに城碑がありましたが、薄く汚れていたので何が書かれているかわかりません。
P5180007.JPG

こじんまりとした天守閣本丸は昭和29年に再築されたものです。
P5180008.JPG

本丸前には八陣の庭が広がります。諸葛孔明の八陣法をテーマにしたとされ、中央の大将と
先端の天・地・風・雲・鳥・蛇・龍・虎の各陣に石組みが配されています。
P5180009.JPG

入城料300円を払って城内へ。しかし城内展示物はすべて写真NGでした。3Fの展望台から
の風景ですが、西には大阪湾が1kmほどの距離に望めます。
P5180011.JPG

東には遠く葛城山の山並みが見えました。
P5180012.JPG

城内の展示はほとんど江戸時代の城主岡部氏関連のものばかりでした。しかしそれまでは城主が
いろいろ代わっています。詳しくは岸和田城Wikipediaで
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%9F%8E
面倒くさいという方に少しだけ略歴を申しますと、1334年前後楠木正成の命により和田高家が
現在より500m東に岸和田古城を築城。岸の城と呼ばれその後和田高家が築城した事から
岸和田城と呼ばれた。後、羽柴秀吉は根来衆、雑賀衆ら紀州の一揆を封じるための拠点とし、
その後も家臣小出秀政を城主として紀州から大坂城を守る拠点となったが、大坂之陣では小出が
東に寝返り、松平信吉が城主となり南からの大坂攻めの拠点となった。江戸時代からは岡部氏
が代々城主を勤め現在に至っています。
P5180010.JPG

二の丸多聞櫓も再築されたものです。
P5180013.JPG

お城の前の公園には岡部氏家紋入りの時計台がありました。
P5180014.JPG

前勉強なしに行ったのが間違いでした。城内には岸城神社(岸和田神社)があり、ここが岸和田
だんじり祭の祭神となります。行かなかったのが残念です。
では次回に岸和田フォーラムの報告をさせていただきます。
これにて御免[exclamation][ダッシュ(走り出すさま)]




nice!(32)  コメント(10) 
共通テーマ:日記・雑感

大阪漫遊記(岸和田・蛸地蔵)編 [徒然]

5月18日(日)、岸和田フォーラムに参加するため再び岸和田にやってきました。
少し早めに家を出て岸和田の街を散策しました。だんじりの街として全国的にも
有名な街だと思います。まずは駅前商店街を通り紀州街道まで出ました。
P5180002.JPG

この商店街には超有名店があります。そう岸和田が生んだ世界的デザイナー
コシノファミリーの本家本元です。
P5180031.JPG

紀州街道を歩くと古い街道沿いらしく老舗の店舗が並んでいます。
提灯屋さん。
P5180016.JPG

老舗の和菓子屋さん。
P5180017.JPG

P5180018.JPG

その他古民家や仏具屋などが並んでいました。いい雰囲気の街並みです。
途中「きしわだ自然史博物館」もありましたが、入り口から見た限りあまり面白くなさそうで
入場料200円もいるのでパスです。
P5180015.JPG

そして岸和田城、そしてフォーラム会場岸和田だんじり会館に到着。ここについてはまた次回。
時間がまだあるのでもう一つのチェックポイント蛸地蔵に行きました。岸和田駅から1つ和歌山
寄りの駅です。
P5180020.JPG

なぜ蛸地蔵という変な名前かというと、それは通称蛸地蔵と呼ばれる「天性寺」があるからです。
P5180021.JPG

P5180022.JPG

P5180023.JPG

浄土宗の寺院で創建は1570年(詳細は不明)。山号は護持院、院号は朝光院。
ご本尊は阿弥陀如来と秘仏蛸地蔵とされる地蔵菩薩です。
ではなぜ地蔵菩薩が蛸地蔵と言われているかという由縁は、建武年間に岸和田城を高波が
襲いかかり、その時海の彼方より大蛸に乗って現れた法師が海岸まで近づき波風を鎮められて
城下は救われたそうです。その後1584年岸和田合戦の際、小牧・長久手の合戦に出陣した
秀吉の隙をついて大坂を目指した根来寺勢その数3万、一方岸和田城を守る兵は約5千。
落城寸前の危機にあった岸和田城を再度蛸に乗った法師が現れ次々と敵を倒していった。
しかし多勢の根来寺勢に取り囲まれ危機に陥った法師を海辺から轟音をたて幾千万の蛸
の大群が現れ敵を殺す事無く退却させたといわれる。城主は喜び法師を探したが結局わから
なかった。ある夜、法師が城主の夢枕に立ち、自分は地蔵菩薩の化身であると告げたので、
その昔戦乱から守るため、堀に埋め隠し入れた地蔵菩薩像を出して祀ったといわれます。
その地蔵菩薩を祀ったのがこの天性寺でそれからここを蛸地蔵と呼ばれる事になったそうです。
今ここ天性寺の地蔵堂は日本一大きい地蔵堂となっています。
由縁、言い伝えって面白いですね。では岸和田城、岸和田フォーラムは次回以降にて。
これにて御免[exclamation][ダッシュ(走り出すさま)]




nice!(32)  コメント(6) 
共通テーマ:日記・雑感

うまいもんいちIN万博 [散歩]

今日は気分転換に万博公園に出かけました。土曜日なので覚悟してはいましたが、
人が異常に多い[exclamation&question]イベントの掲示板を見ると今日はこれが開催。
P5160017.JPG

「逸品縁日・うまいもん市IN万博」少しうんざりしましたが、交通費往復740円も使ったので
入ることにしました。万博のシンボルがお出迎えです。
P5160006.JPG

大迫力の真下から表裏を。
P5160009.JPG

P5160010.JPG

太陽の塔の下、お祭広場でイベントは開かれていました。170店舗にも及ぶ飲食のブース。
P5160012.JPG

P5160011.JPG

P5160016.JPG

最近食に関して全く興味がわきません。人ごみを避けながらグルッと一周りしましたが、各地の
B級グルメの屋台や地ビールのお店、名産品の数々。しかしそのままスルーしました。地ビール
と餃子のブースが並んでいるところで一瞬躊躇しましたが、本当にどうした事でしょう?気分的
にそんな気分にもなれませんでした。ちょっと重症のようです。
イベントステージにはなぜかひこにゃんがやって来ていました。意味不明?
P5160015.JPG

P5160013.JPG

万博公園に来たかった理由は花などを見ながらゆっくり散歩したかっただけなのに台無しです。
P5160007.JPG

人ごみにうんざりして早々に退散してきました。土日の行動はイベント情報などをチェックしてから
行動したほうが良いですね。反省です。
明日は再び岸和田に向います。岸和田フォーラム「だんじり彫刻から紐解く『大坂之陣』」へ参加。
少し早めに行って岸和田の町を漫遊してきたいとも思っています。その模様はまた後日。
これにて御免[exclamation][ダッシュ(走り出すさま)]






nice!(27)  コメント(11) 
共通テーマ:日記・雑感

チグハグな毎日 [徒然]

どうもG.Wにいろいろ動き回ったツケが今になって回ってきた気がします。
体力的にも気力的にも「さあ頑張ろう!」となりません。いかん事です。
仕事はコツコツとなんとか頑張っていますが、それ以外の事が全くの無気力です。
特に家事は酷いもんで、食事は手抜き、洗濯物は1週間溜まり、掃除にいたっては
全く手付かずの状態です。この週末になんとか立て直したいと思っています。
ですのでブログネタもこれといってないのでご了承下さい。
昨日少し暑かったので、少ない気力を振り絞り早くもこれを準備しました。
P5140005.JPG

カバーと羽を掃除しやっとの事で出しました。しかし今日は雨が降って少し肌寒い一日。なんとも
チグハグな生活です。
これにて御免[exclamation][ダッシュ(走り出すさま)]



nice!(29)  コメント(7) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。