信州長野(松本・長野・松代・上田)漫遊記(3日目・上田編) [旅行]
3泊4日信州の旅レポも今回が最終回です。真田を後にし上田に戻ってきました。
休む間もなく「上田城跡公園」へ。駅から歩いて20分ぐらいですが、足はガクガク
そしてマメや水ぶくれ、満身創痍です。足を引きずりながらやっと到着。
上田城は、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により、1583年(天正11年)に築城された平城です。
天守は築城当時からなく、昌幸が築城するにあたり、天守は戦には目立つだけでメリットがないと
言う事で造られませんでした。真田家にとっては立派な天守は必要なかったのでしょう。
今は本丸南櫓と東虎口櫓門が残されています。東虎口櫓門には入ることができます。入場料は
250円。これで市立博物館と山本鼎(画家)記念館と共通入場券になります。
特に中は何もなく少しの展示品と景色を眺める程度です。
本丸南櫓
本丸跡には、明治に松平神社として建立された歴代城主を祀った神社があり「真田神社」と呼ばれて
います。
境内にでっかい幸村の兜があります。この赤く六連銭の前立てに鹿の角の脇立ては有名ですが、
実は大坂之陣でしか使われていません。
本丸跡は緑の多い気持ちのいい公園になっています。
少し見にくい写真で申し訳ございませんが、城の周りは千曲川から流れ込む尼ヶ淵によって掘が
周りを囲んでいます。
このことから上田城は尼ヶ淵城とも呼ばれています。この小さい城がなぜ注目を集めるのか?
それはやはり2度に渡る上田の合戦を守り抜いたからでしょう。
第1次上田合戦では徳川家康7000人の軍勢に対し2000人の軍勢で立ち向かい撃退します。
これだけでも昌幸の戦略はすごいと思いますが、やはり注目は第2次上田合戦です。
豊臣秀吉が天下を統一し、しばらく動乱は治まりますが、慶長5年(1600)に関ケ原の戦いが
起こります。秀吉没後の覇権を、徳川家康と石田三成が争ったこの戦いで、昌幸と次男の幸村は
石田方に、長男の信之は徳川方に別れて戦うことになります。 石田方についた昌幸と幸村は、
上田城に立てこもり、東山道を西上する徳川秀忠軍3万8000人に対して、わずか2500人で籠城戦
を行います。この第二次上田合戦では、徳川秀忠軍は、7日間上田に釘(くぎ)づけとなり、関ケ原
での石田三成との決戦に間に合わず、家康の激怒をかっています。しかし関ケ原の戦いは、
石田方の敗北に終わり、昌幸と幸村は、九度山(和歌山県)に幽閉されます。
そして、徳川方に接収された上田城は一度破壊されます。堀を埋めて、塀を壊し、櫓(やぐら)などの
建物はいうまでもなく壊され、廃城となりました。その後、上田領を家康から与えられた長男の信之が
引き継ぐことになります。
大坂之陣でも証明されますが、いかに昌幸、幸村が優れた軍師であったことがおわかりになる
でしょう。公園内にあるのが市立博物館と山本鼎(画家)記念館ですが、共通入場券があったので
入りましたが特に見るべきものはありませんでした。(私にとっては)
次に向ったのが公園から歩いて10分ほどのところにあるのが、「池波正太郎真田太平記館」です。
残念ながらここも館内撮影NG。著書「真田太平記」の世界を紹介する文学館とガイドにはありました
が、約半分は池波氏の歴史が紹介されており私には興味ございません。しかし、真田太平記を
モデルにした映像の世界は非常に興味深く面白いものでした。
最終日のホテルは上田駅のすぐ近く「ホテルカドマン」です。
建物自体古いビジネスホテルです。1泊3500円とカプセルホテル並なのであまりクレームは
つけたくありませんが、部屋の狭さはともかく冷房が館内全体の空調であまり効いていない。
室内冷蔵庫もなく、テレビは昔のブラウン管型で画像も電波状況が悪いのか見にくいテレビ。
明日の長旅に備えて早めに就寝しました。
翌朝7:00出発。来た時の逆で帰路に着きました。朝食は上田駅のコンビニでサンドイッチと牛乳。
昼食は旅の醍醐味の一つ、駅弁を購入。
ハードな旅でしたが充実した旅でした。改めて真田幸村が好きになりました。今度はいずこへ歴史旅。
また楽しみにしています。
今回の旅ではバス、しなの鉄道の移動を除き、青春18きっぷで使用した区間は、
往路 大阪~松本~長野 7340円
復路 篠ノ井~大阪 7020円(上田~篠ノ井は、私鉄しなの鉄道)
合計 14360円 前回の姫路の旅では4340円 総計 18700円
青春18きっぷは11850円。十分元は取れました。まだ2日分残っています。さて9月10日まで
何処へ行こうか思案中です。
P.S. フェイスブックの「関西顔ハメ看板普及委員会」というのに所属しています。私は昔から
一人旅ですので、顔ハメ看板があるとハメたくて仕方ありませんでした。今回勇気をふり
しぼり、公園管理者の方にお願いして撮ってもらいました。「わしが幸村じゃ~」
休む間もなく「上田城跡公園」へ。駅から歩いて20分ぐらいですが、足はガクガク
そしてマメや水ぶくれ、満身創痍です。足を引きずりながらやっと到着。
上田城は、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により、1583年(天正11年)に築城された平城です。
天守は築城当時からなく、昌幸が築城するにあたり、天守は戦には目立つだけでメリットがないと
言う事で造られませんでした。真田家にとっては立派な天守は必要なかったのでしょう。
今は本丸南櫓と東虎口櫓門が残されています。東虎口櫓門には入ることができます。入場料は
250円。これで市立博物館と山本鼎(画家)記念館と共通入場券になります。
特に中は何もなく少しの展示品と景色を眺める程度です。
本丸南櫓
本丸跡には、明治に松平神社として建立された歴代城主を祀った神社があり「真田神社」と呼ばれて
います。
境内にでっかい幸村の兜があります。この赤く六連銭の前立てに鹿の角の脇立ては有名ですが、
実は大坂之陣でしか使われていません。
本丸跡は緑の多い気持ちのいい公園になっています。
少し見にくい写真で申し訳ございませんが、城の周りは千曲川から流れ込む尼ヶ淵によって掘が
周りを囲んでいます。
このことから上田城は尼ヶ淵城とも呼ばれています。この小さい城がなぜ注目を集めるのか?
それはやはり2度に渡る上田の合戦を守り抜いたからでしょう。
第1次上田合戦では徳川家康7000人の軍勢に対し2000人の軍勢で立ち向かい撃退します。
これだけでも昌幸の戦略はすごいと思いますが、やはり注目は第2次上田合戦です。
豊臣秀吉が天下を統一し、しばらく動乱は治まりますが、慶長5年(1600)に関ケ原の戦いが
起こります。秀吉没後の覇権を、徳川家康と石田三成が争ったこの戦いで、昌幸と次男の幸村は
石田方に、長男の信之は徳川方に別れて戦うことになります。 石田方についた昌幸と幸村は、
上田城に立てこもり、東山道を西上する徳川秀忠軍3万8000人に対して、わずか2500人で籠城戦
を行います。この第二次上田合戦では、徳川秀忠軍は、7日間上田に釘(くぎ)づけとなり、関ケ原
での石田三成との決戦に間に合わず、家康の激怒をかっています。しかし関ケ原の戦いは、
石田方の敗北に終わり、昌幸と幸村は、九度山(和歌山県)に幽閉されます。
そして、徳川方に接収された上田城は一度破壊されます。堀を埋めて、塀を壊し、櫓(やぐら)などの
建物はいうまでもなく壊され、廃城となりました。その後、上田領を家康から与えられた長男の信之が
引き継ぐことになります。
大坂之陣でも証明されますが、いかに昌幸、幸村が優れた軍師であったことがおわかりになる
でしょう。公園内にあるのが市立博物館と山本鼎(画家)記念館ですが、共通入場券があったので
入りましたが特に見るべきものはありませんでした。(私にとっては)
次に向ったのが公園から歩いて10分ほどのところにあるのが、「池波正太郎真田太平記館」です。
残念ながらここも館内撮影NG。著書「真田太平記」の世界を紹介する文学館とガイドにはありました
が、約半分は池波氏の歴史が紹介されており私には興味ございません。しかし、真田太平記を
モデルにした映像の世界は非常に興味深く面白いものでした。
最終日のホテルは上田駅のすぐ近く「ホテルカドマン」です。
建物自体古いビジネスホテルです。1泊3500円とカプセルホテル並なのであまりクレームは
つけたくありませんが、部屋の狭さはともかく冷房が館内全体の空調であまり効いていない。
室内冷蔵庫もなく、テレビは昔のブラウン管型で画像も電波状況が悪いのか見にくいテレビ。
明日の長旅に備えて早めに就寝しました。
翌朝7:00出発。来た時の逆で帰路に着きました。朝食は上田駅のコンビニでサンドイッチと牛乳。
昼食は旅の醍醐味の一つ、駅弁を購入。
ハードな旅でしたが充実した旅でした。改めて真田幸村が好きになりました。今度はいずこへ歴史旅。
また楽しみにしています。
今回の旅ではバス、しなの鉄道の移動を除き、青春18きっぷで使用した区間は、
往路 大阪~松本~長野 7340円
復路 篠ノ井~大阪 7020円(上田~篠ノ井は、私鉄しなの鉄道)
合計 14360円 前回の姫路の旅では4340円 総計 18700円
青春18きっぷは11850円。十分元は取れました。まだ2日分残っています。さて9月10日まで
何処へ行こうか思案中です。
これにて御免
P.S. フェイスブックの「関西顔ハメ看板普及委員会」というのに所属しています。私は昔から
一人旅ですので、顔ハメ看板があるとハメたくて仕方ありませんでした。今回勇気をふり
しぼり、公園管理者の方にお願いして撮ってもらいました。「わしが幸村じゃ~」