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だいぶん前のイベントの話で恐縮ですが・・・。 [趣味]

だいぶん前の話になりますが、5月3日に道明寺祭に行ってきました。
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大坂夏之陣から400年、去年も冬之陣から400年だったので行われたイベントです。前にも詳しく
UPしたと思いますので今回は少しだけ報告します。道明寺合戦は大坂夏之陣でもっともキーポイント
となった合戦で、ここで大坂方が勝っていたらまた別の展開になっていたであろう重要なポイントです。
道明寺駅では記念入場券が発売されていました。
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朝早く着いたのでイベントが始まるまで古戦場巡りです。去年もUPしたと思いますので詳しい解説はパス。
駅前の道明寺合戦記念碑
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小松山古戦場跡
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誉田林古戦場
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大坂方の英雄「後藤又兵衛」や「薄田隼人」もこの合戦で散りました。
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先陣は少数で徳川方の足止めに奮闘しました。この後真田幸村隊合流予定が深い霧のため
合流出来ずこの合戦は敗れます。歴史に「もし」はありませんが、後藤又兵衛、薄田隼人が
孤軍奮闘していただけに幸村隊が合流していれば大坂方が勝っていたと言われています。

その後河川敷で行われたイベント見学。甲冑隊の合戦模様や舞台では武将隊の演舞などが
披露していました。ゆるキャラいのまなり君(この地から派遣された遣唐使・井真成がモデル)
も大活躍でした。
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武将隊演舞も楽しめました。
大阪城の公認武将隊RONIN5。役者の卵がメンバーです。
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そして去年も参戦してくれた上田おもてなし武将隊です。一緒に写真を撮ってもらいました。
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この中の筧十蔵と由利鎌之助役の娘さんがとてもかわいいんです。
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上田市市長の母袋市長と少しお話もさせていただきました。去年訪れた上田市。これからも応援
していきたいと思います。
上田おもてなし武将隊の演舞。YoutubeにUPしていますのでよろしければご覧下さい。



訪問はまた帰宅後になります。お許しを。
これにて御免[exclamation][ダッシュ(走り出すさま)]



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大坂之陣で見事討死!壮絶な戦いでした。 [趣味]

先週の日曜日、大坂之陣歴史検定を受けてきました。(2級と3級がありましたが私は難しい方の
2級を受験。)結果から申しますと大坂方と同じく見事に討死。受験料が泡と消えていきました。
(言い訳がましいですが、3級受験なら楽々合格でした。・・・負け犬の遠吠え[ふらふら]
大阪府吹田市にある大和大学が受験会場でした。
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100問中80点で合格。回答は3択でしたが、確実にわかった問題30%、なんとなくそれだろうなと
いう問題30%、わからん!という問題が40%ぐらい。3択なので当たったやつもあると思いますが、
自分自身の勉強不足は否めません。
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勉強不足が最大の原因だとは認めますが、敗因を自己分析してみますと・・・・。
1.100問中最初の27問は大坂之陣に至ることについての問題で、直接大坂之陣に関係する
とは思えない問題が数問あった。
(例1)現在の大阪城の場所の最初に本願寺の御坊を建てた僧侶は誰?
①顕如②教如③蓮如
(例2)豊臣秀吉の正室だった北政所が京都東山に建立したお寺は?
①興大寺②広大寺③高台寺
(例3)関ヶ原の合戦の時、毛利輝元はどこに居た?
①関ヶ原②伏見城③大阪城

2.問28から問47までの大坂之陣についての直接起こった出来事についての問題はパーフェクト!

3.問48から問81までは大坂之陣に関わる人物問題。ここで大きく点を落としたのが、大阪之陣に
関わる女性についての問題でした。
(例1)大野治長の母親は?
①大蔵卿局②宮内卿局③饗庭局
(例2)その大野治長の母親のかつての役割は?
①淀殿の乳母②千姫の乳母③豊臣秀頼の乳母
(例3)大坂城落城の時、千姫を脱出させたといわれるのは?
①饗庭局②刑部卿局③高台院

4.問82から問90までは大坂之陣その後の問題。完全に勉強不足で手も足も出ませんでした。
(例1)元号「慶長」から「元和」に改元されたのは?
①1615年1月②1615年7月③1616年1月
(例2)大坂夏之陣から36年後に発覚した反乱未遂事件とは?
①慶安事件②慶長事件③寛永事件
(例3)例2の事件の首謀者は?
①穴山梅雪②由井正雪③桐野利秋

5.問91~ラストまでの長文穴埋め問題はパーフェクトでした。

もし第2回があるならば必ずリベンジしたいと思います。

ブログ再開と言いながらまた1週間も更新できませんでした。もっと自分自身に余裕を持ちたい
と思います。

これにて御免[exclamation][ダッシュ(走り出すさま)]



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岸和田フォーラム「だんじりから紐解く『大坂之陣』」 [趣味]

岸和田散策、岸和田城見学の後、
産経ウェーヴ主催の岸和田フォーラム「だんじりから紐解く『大坂之陣』」に参加しました。
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場所は岸和田城の隣にあるだんじり会館です。

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満員御礼の大盛況でした。やっぱり大坂冬の陣から400年来年は夏の陣から400年、大阪の
歴史好きの人にはたまらん年です。
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まずは大阪城天守閣館長・北川央氏による「総論・大坂之陣」のシンポジウムでした。このお話は
大変興味深く聴かせていただきました。天下分け目の関が原とよく言われますが、実際は天下が
分かれたのは大坂之陣だと言う事です。1598年豊臣秀吉は死去しました。その後の事は息子
秀頼に継がせ天下泰平の世を作るよう、家臣徳川家康、前田利家らに遺言を残しました。しかし
1599年、秀吉の両腕と言われた家康、利家の内利家が死亡すると、家康の裏切りが始まる。
いろいろな家康の暴挙に対して、石田三成他豊臣家臣は徳川の暴挙を止めにかかるが、家康は
すでにいろいろな策略で大名を取り込んでいった。そして1600年関が原の戦いが始まる。しかし
これはあくまで豊臣家家臣の内乱に過ぎない。徳川方勝利の後1603年家康が征夷大将軍に任命
されたが、この時点ではまだ江戸幕府は開かれたものの朝廷での位は右大臣で天皇、摂政、関白
の3位に次ぐ武士最上位の地位にしか過ぎない。しかし豊臣秀頼は関白秀吉の子として、朝廷は
まだ当時11才だったため次期関白の位を約束されていた。教科書では関が原の戦いで破れ、
摂津、河内、和泉の65万石の一大名になったと習ったと思いますが、それではなぜ大坂之陣が
起こったのでしょう?実際には豊臣家はまだ朝廷に大きな影響力を持ち、江戸幕府後も朝廷から
大坂城へ挨拶に出向いたり、各大名からの付け届けなどがあったという書状などが残っている。
また秀頼は戦で失われた神社仏閣の補修にも力を入れより朝廷からの信頼も厚くなっていった。
それを良く思わないのが徳川家。すでに1605年二代将軍秀忠になってからも家康の力衰えず、
1614年方広寺大仏殿の鐘銘にいちゃもんをつけ先手を打ち諸大名を味方につけた家康は
豊臣征伐を掲げ10月1日大坂冬之陣に突入する事となる。しかし大坂城の強い守りと大名の力
が拮抗していたために12月19日和平交渉妥結、22日和睦が成立した。しかしこれはあくまで
家康の策略で和平の条件として大坂城の堀の壊す事を条件とした。この条件を受けたのが
豊臣側のボンクラ家臣大野治長。これによって大坂城は丸裸の防備となる。この工事が完了した
ことにより1615年4月5日家康は秀頼に対し、大坂城を明け渡し国替えを命じた。これを拒否した
ため大坂夏之陣へと突入した。この時すでに諸大名の多くは家康の手回しで徳川家側に寝返って
いた。そして大坂城が無防備となった豊臣側は野戦を強いられ窮地に追い込まれる。
慶長20年(1615)5月7日天王寺口で最後の決戦、そして大坂城は落城した。翌8日秀頼、淀殿
自刃により豊臣家は滅亡した。秀頼わずか23才での事だった。これにより朝廷での位が大納言
右大臣ながら徳川家は最高位となり、江戸時代に突入した。という話でした。
天下を分けたのは関が原ではなく大坂之陣だったと言う事がお解りいただけましたでしょうか。
もし前田利家の寿命がもう少し長かったら、もし秀頼が65万石の一大名に下っていたなら、もし
大野治長のようなボンクラ家臣がいなければ。もし、たら、ればをいろいろ考えると歴史はいろいろ
変わって見えて面白いですね。

続いて旭堂南陵師匠の講談「難波戦記より槍摺之鎧」の一節。真田幸村が徳川家康を追い詰め
家康は家臣大久保彦左衛門とともに逃げ回る。しかしすでに年老いた家康は逃げることも出来なく
なり、ため池に入り葦の茂みに隠れた。幸村は葦の動くところに槍を突き立てるが、彦左衛門の
鎧をかすっただけで家康は命からがら逃げ延びたというお話でした。

続いては篠笛奏者森田玲氏による岸和田だんじり祭の概要のお話でした。森田氏は神祭に精通
されている方で、岸和田の祭がどう変化してきたかの概論を説明いただきました。
前ブログに書いたように岸和田の祭は岸城神社(岸和田神社)の神事として1745年に始まりました。
そして当初は神賑行事として太鼓台、獅子舞、にわかなどの行事だったそうです。大きなだんじり祭
となったのは江戸後期以降だそうです。中秋の放生会として八幡様をお祀りするお祭で旧暦の8月
13日、明治以降は新暦の9月15日に行われています。今現在は神事は変らず9月15日に行われ
ていますが、神賑行事としてのだんじり祭は15日に近い土日に行われています。

ここまでは大坂之陣の話と岸和田の祭の単体での話ばかりですが、では岸和田のだんじりは
大坂之陣とどういう関係があるのでしょうか?
それはこのフォーラムのメインイベント。前出の北川先生と南陵師匠に加え、神祭に詳しい篠笛
奏者森田玲氏、だんじり彫刻師の河合申仁氏による四者対談という形で始まりました。
岸和田の街並みを猛スピードで駆け抜け、カーブでは見事なやりまわしなど派手な部分ばかり
に目が行きがちですが、だんじり15基(20町内で現在は15の町にあります)には様々な彫刻
が施されています。実際祭りで走っているときは保護のため金網が張られ見えにくいのですが、
前後左右に勇ましい武者の彫刻が様々な話により彫られています。
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古くは日本武尊の蝦夷征伐野火の難などの日本神話から、三国志、源平物、曾我物、太平記物、
戦国物、忠臣蔵などの様々な名場面が彫られています。その中に大坂冬之陣、夏之陣物があります。
しかしその場面は北川先生の史実にはないものが殆どだそうです。実際の史実によって作られるので
あれば、大物武将同士の戦いなど実際にはないわけで迫力に欠けます。ではどこからこの場面が
設定されているかと言うと講談の場面による事が殆どだそうです。大坂之陣で言えば、先ほどの南陵
師匠の槍摺之鎧の場面や、後藤又兵衛、薄田隼人の活躍場面などの講談の世界が広がっていて、
だんじりと大坂之陣のつながりは講談だということです。しかし講談が全部作り話かというとそうでは
ありません。史実は文書が残っていないと証明できません。しかし講談の世界は実際の言い伝えや
物証があり、その上で話が作られます。講談の世界では徳川家康は後藤又兵衛の槍によって討ち取
られます。そんなアホなと思われるかも知れませんが、実際に堺の南宗寺という所に家康の墓があり
日光東照宮に後藤又兵衛に刺された駕籠が残っています。その後の家康は東大阪の吉田村に居た
やそ兵衛という人物が家康に似ていたため江戸まで連れ帰り影武者にしたという言い伝えも東大阪
に残っています。史実を語る北川先生、講談の世界を語る南陵師匠、お二人の南北戦争は産経ウェ
ーヴの名物になっています。
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3時間に及ぶフォーラムも非常に興味深く面白く楽しい時間を過ごせました。
その後、だんじり会館内を見学。実際の彫刻現場の見学もありました。
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だんじりの花形、屋根の上で方向を操る大工方の経験もできます。
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参加料2500円といつもより少し高かかったのですが、お土産に「岸和田だんじり祭地車名所独案内」
(森田玲氏構成)の冊子とだんじり法被ストラップをいただきました。
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十分納得です。有意義な時間を過ごせた日曜日。長々とした報告失礼しました。
これにて御免[exclamation][ダッシュ(走り出すさま)]


P.S.  前ブログにおきまして大阪では大阪城しか知らなかったとのご意見をいただきました。
    大阪には天守として残っているお城は大阪城、岸和田城、池田城の3城が残っています。
    また城跡にいたっては確認されているだけでも110もの城跡がありました。また各所に
    砦や陣屋が残っており、いかに戦国の世に重要な拠点だったかを示しています。



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元をとらなきゃ払い損 [趣味]

前のブログに於きまして、禁酒の身でありながら少量ではありますがアルコールを
摂取し、皆さんにご心配をおかけし申し訳ございませんでした。

ゴールデンウィーク突入と世間は浮かれていますが、私は暦どおりなのであまり関係ありません。
それでも明日と5月3,4,5日は慌しく動き回りますのでその模様はまたブログUPします。
それ以外はゆっくり家で過ごしたいと思っています。FMCOCOLO765を聴きながら講談の
練習、そしてたまにはゆっくりTVでも観たいと思います。
毎年14000円ぐらい払っているNHKの受信料。見ないと損と思いませんか?元々TVを見る
時間は少ないのですが、最近特に民放で見る番組がなくなり、NHKを見る機会が増えました。
朝はテレビ体操を見ながら体を動かす事から始め、大河ドラマの「軍師官兵衛」、音楽番組の
「SONGS」、歴史を紐解く「歴史秘話ヒストリア」、そして中でもEテレの「趣味Do楽」という
番組は特集によりますが、仏教を題材とするときはテキストも買って欠かさず観ています。
今放送されているのが「ほとけの履歴書」、様々な仏様のルーツを辿っていく興味深い内容
です。ただナビゲーターが篠原ともえというのに違和感を感じますが。
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以前にもこういう内容が放送されていました。
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皆さんもNHKの番組欄をよく見て下さい。きっと自分の興味のある趣味の世界の番組が
見つかると思います。せっかく払った受信料、元をとらないと損ですよ。
これにて御免[exclamation][ダッシュ(走り出すさま)]


P.S.   明日は落語と講談の寄席を見に堺へ行ってきます。また街ブラもしようと思っています
       ので、その報告はまた後日。


 

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今年のチャレンジ 其の一 [趣味]

早くも就活、書類選考で2連敗です。
今年の目標として年始に掲げたのは「新しいものへのチャレンジ[exclamation]
あと20年生きられるかどうかわからない状態なので、やりたい事はすべてやっていこうと
思い立った次第です。もちろん第一は就職ですが趣味の部分でも充実させたく、興味を持った
ものにはどんどんチャレンジしていきたいと思っています。その第1弾として習い事を始めました。
先日にも書きましたが最近講談に嵌っています。そこで聞くだけでなく自分もやりたいと衝動に
かき立てられ、1月から市民講座、カルチャーセンター、通信講座など調べまくりましたが見つか
りません。ところがYOUTUBEで講談の検索をしているとこれがヒットしました。

旭堂南陽 誰でも簡単スタート(講談)。 これを見てますます講談をやってみたくなりました。
南陽さんは旭堂南陵師匠のお弟子さんで先日の講談会でも演じておられました。
この講座、今でもどこかで開催されているのではないかとWebを使って検索しましたが見つかり
ません。ところが運よく「南陵一門会」のSNSにたどり着きコミュニティーに参加。そして週1回の
勉強会がある事を知り、即参加を申し込みました。
昨日がその初日。常連参加者の中で初日の私は超緊張、昨日は練習用の原稿をいただき
南陵師匠のお手本を聞き、先輩参加者の練習風景を見るにとどまりましたが、いよいよ次回から
実際に前に出て師匠に稽古をつけていただく事になります。練習演目は講談の基本中の基本、
修羅場読みと言われる臨場感溢れるしゃべり方。演題はYOUTUBEにもUPされています、
講談「宇治川の一番渡り」佐々木、梶原が宇治川の一番渡りを競うという有名の一席。
平家物語の一説で源義経と義仲の合戦で源義経側の佐々木軍勢と梶原軍勢が義仲との戦いで
京都宇治川をどちらが先に渡るかという一節です。約5分一気に読みきるこの修羅場読みは
面白みこそありませんが、講談の基本を修得する第一歩。頑張りたいと思います。
これにて御免[exclamation][ダッシュ(走り出すさま)]

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